エスクがこの世に存在するわけ
   生まれるべくして生まれたエスク40年の歳月によせて

— 愛といたわりと厳しい目 —

 1970年代、3歳未満児の保育は保育園と国が決めました。独り身で子どもを育てるお母さんのためには母子寮をつくりました。いずれも養育困難な生活事情にある人々のための施策でした。
 時はめぐり社会党系の知事が東京に誕生した1948年ごろ福祉予算をしっかり取ったのは良かったのですが、大型保育園が次々に作られました。このことは女性の能力を社会で使いたいと、労働力不足を解消するための産業的視野で行われ、そのことにより子どもの育ちがどのように変化するかという教育的配慮は欠落していたと思われます。
 1940年代から1950年代くらいに子育てをした人達にとっては先の大戦のおかげで、子供に食べさせるもの、着せるものが充分になく、住む場所も安全が確保されず、それは大変な時代でありました。子ども心にも空腹であった日々が思い出され、空襲警報が鳴れば、スルメや乾パンなどを詰めてもらったリュックを背負って、庭先に掘った防空壕に入る日々でした。息を殺して、敵の飛行機が遠のいて行くのを待つ、、、。このような環境の中で、育児をすることはさぞや苦労の多かったこととよくわかるのは自分が子どもを持ってからのことでした。「子供は大変、大変」と言われ育てられたので、両親の姿はお世辞にも育児を楽しんでいるようには見えませんでした。心配ばかりだったと思いますから、私は子ども心に「親に心配をかけないようにしなくてはいけない」という憲法が出来上がっていました。よい子でいなくてはいけなかったのです。
 さて、1970年代に入り自分が親になり子どもを持ってみたら、覚悟をしていたよりもずっと楽しいではありませんか。敵の飛行機は飛んでこないし、食べさせるモノも着せるモノも贅沢さえ慎めば、困ることはありません。栄養状態の良い子ども達はいつも元気でニコニコしていて、この大きな違いに気づいた私は、人が生きることに関して深く考えるようになりました。
 また、外国の生活を知ったこともあり、母国の文化に対しても考えを深くいたしました。狭苦しい日本を一歩出て、広い世界を見てみたいという青年特有の願望により4年間ほど海外を歩いたことで、日本人という民族に対する誇りも持ち直しました。海を越えてあちこち走っていた私は、トランク2つと中くらいのバッグ1個という暮らしを続けていました。若かったせいで落ち着かないと思ったことは地球上のどこの地にいてもありませんでした。見るもの聞くもの興味深く、人々の暮らし向きの違いをいろいろ観察する機会に恵まれました。一人前の大人として認められるためには、結婚も必要であると思っていましたので、21歳の春結婚しました。しばらくは子どもに恵まれませんでしたが、最初の子どもを持った時には生活が変化していて、夫の故郷に定着していました。そこから子育てが始まり、いつの間にか4人の子持ちとなった時にふとしたことからエスクが立ち上がったのです。このあたりのいきさつはエスクの本に多少詳しく記述しています。

— エスクが誕生 —

 子育ては学ぶことが多く日々に新鮮で、本当に充実した日々であることを改めて感じました。そのことを子育て中の人々と共有できたら良いのにと連携を作ることを目的に身近なお友達に呼びかけてみたところ、共鳴がありまして、あっという間にエスクが生まれたのです。遊びあうだけでは物足りないと思ったこと、、、。どうせならお互いの助けになるようなことでつながった方がいいと感じたこと。それが、働くお母さんと家庭にいるお母さんを結ぶ今のネットワークの原型でした。「働く大変さは専業主婦には分からないわよね。」というようなことが囁かれているときでした。子どもたちが健やかに育つためには大人の連携、連帯が大事と思ったのです。今のようにインターネットがあるわけでなく、コピー機もなく手書きで書類を写し、通信はガリ版刷りのものでした。思い出すと懐かしいインクの匂いがしてきます。
 最初の驚きは新聞の取材でした。8歳、7歳、6歳の3人の年子と少し離れて2ヶ月のベビーが暮らす我が家です。お世辞にもきれいに片付いているというものではなく、日常の喧騒の中にあらわれた新聞記者氏の一言が、「ここは本当にきれいですね。保育園は汚いですよ。」というではありませんか。あらら、、、。子どもは床には転がりますし、何人もの子がハイハイしてきた部屋ですから、床に雑巾がけをしますが、散らかり放題でした。
 この日の驚愕がわたくしを保育園の見学に駆り立てました。乳児を抱いて尋ねると、保育園はどこも気軽に中に入れました。なるほどと思ったのです。まだ年若いあどけなさの残る保母さんたちには、こまめに掃除するなどの生活技術は無理なのでしょう。それともお掃除だけ専門の人が来るからそれですべてなのでしょうか。正直わが子を預けたいと思える環境ではありませんでした。
   
— 家庭保育が始動 —

 我が家に初めての子どもを連れて訪ねてきたお預けの希望者は、2軒隣の隣人でした。自分の家のことだけで精いっぱいだった私は、お隣さんと知り合えてうれしかったことを覚えています。日ごろは時たま回覧板を回す程度のお付き合いでした。お子さんともたちまち仲良くなりました。お母様が、お子さんが我が家に来たがって困ると言ってくださり、打ち解けました。
 次にやってきたのは外国人のパパでした。なんと子どもを抱いたままローラースケートを履いて、すいすい滑って現れました。聞くと日本に6年も住んでいるというコックさんでした。当時日本のお役所は外国籍の人にきちんとサービスをしていなかったようでした。次から次から電話が鳴りました。夜仕事をしなくてはいけない人がこんなにいるのだと驚きました。子どもを泊めることは特に難しいこととは思えませんでしたので、看護婦さんやお医者さん、飛行機の乗務員さんなどのお子さんを預かることとなりました。このころ預かる会員が次々名乗り上がり、200人ほどになっていました。わずか数年の間にです。地域も北は北海道から、南は岡山あたりまで一気に広がりました。
 お預かりした子ども達は我が家の子らを慕ってくれました。その分我が家の子供たちはお兄さんらしくお姉さんらしく成長してゆきました。子どもって本当に素晴らしいと思ったことです。
   
— 子どもらしく育つということ —


 やがて、金属バットの事件が起き、校内暴力から家庭内暴力も取りざたされました。思い切った都政で大型保育園をたくさん作ったのは良いけれど、それらはすべて、大人の都合で運営され、子どもたちにとってのパラダイスとはならなかったようでした。保育職の人々は専門家だということで、家で自分がまごまご育てるよりも立派な保育園に預けておく方が子どもの為にも良いと思う人が出てしまったのです。これでは親子関係が危なくなります。そんな大事なことを指導されることもなく、中学生で荒れる子に手が付けられなくなった人が各地にみられました。これは薄々予感として案じていたことでした。生活が、親子ともにできていない人々をたくさん作ってしまったのです。
 我が家では何の心配もなく子どもたちは無心に遊び時々喧嘩もし、分け隔てなく成長してゆきました。私を困らせる子がいなかったとは言えませんが、少なくとも子ども達は子どもらしく元気に成長してゆき、病気にもなりませんでした。
 安心した私は、そのことを広く知ってほしいと思い活動記録をありのままに1冊の本にまとめました。この時紹介されてきた編集者と意見が合わなくてトラブルになり、下手でも初めての経験だから許されると、不慣れな作文をすべて自分で書くこととしました。子育て真っ最中でなかなか集中した時間が持てず、初めてちょっとした困難と向き合いました。親の仕事は実に自己犠牲の中に喜びを見出すものだと知りました。
 エスクの存在の価値を自覚し始めました。繋がってくる人たちがすべて本当に素敵な人々ばかりだったのです。だから今のエスクが存在するのです。仕事は人がするし、人は人が育てるのですから、設備や、利便性の問題ではないのです。人が人らしく健康的に生育するためには、何より暖かいケアで育まれることが大切です。そうでないと人を大切にできる人に、ましてや自分を大切にできる人にならないのです。生きることのお手本をエスクが手を取り合って示せたら嬉しいと思います。